真福寺石塔婆(板碑)について

山口県周南市(旧新南陽市)の福川地区にある真福寺(しんぷくじ)には、鎌倉時代から残る貴重な板碑があり、市指定文化財となっています。

特に全国的にも珍しい特徴を備えているため、歴史ファンや石造物愛好家の間でも知られる存在です。その特徴と歴史を整理してまとめます。


1. 基本情報

  • 名称: 真福寺石塔婆(板碑)
  • 所在地: 山口県周南市福川中市町6-27(真福寺境内)
  • 指定: 周南市指定有形文化財
  • 石材: 平野石(地元で採掘される安山岩)

2. 特徴:全国的にも珍しい「二尊種子」

真福寺の板碑は、現在本堂の北側に3基並んで立っています。その中でも中央にある「二尊種子石塔婆」が非常に特徴的です。

  • 珍しい組み合わせ: 通常、板碑には1体の仏様(阿弥陀如来など)か、3体セット(三尊)が刻まれることが多いのですが、ここには地蔵菩薩(カ)不動明王(カーンマーン)という、珍しい2つの梵字(種子)が並んで刻まれています。
  • 彫り方: 文字の輪郭だけを彫り残す「籠字彫(かごじぼり)」という技法が使われており、力強い印象を与えます。
  • 年代: 向かって左側に「乾元二年(1303年)」の銘があり、鎌倉時代後期に造られたことがはっきりと分かります。

3. 3基の構成

並んでいる3基の板碑は、元々は真福寺の北側(現在の福川小学校付近)にあった隠居寺から移設されたものと伝えられています。

配置特徴推定年代
左側の板碑墨書(墨で書かれた文字)の跡があり、「延慶二年(1309年)」の銘が推定されています。鎌倉時代後期
中央の板碑上述の「地蔵・不動」の二尊が刻まれた代表的な板碑。乾元二年 (1303年)
右側の板碑銘文などは確認できませんが、形から同時期のものと考えられています。鎌倉時代後期

4. 歴史的背景

これらの板碑が造られた1300年代初頭は、鎌倉幕府が終焉に向かう激動の時代でした。

  • 地方の信仰: 山口県内でも古い部類に入る板碑であり、当時の周防国(山口県東部)において、武士や有力な民衆の間で不動明王や地蔵菩薩への信仰が深まっていたことを示す重要な証拠です。
  • 地元の石材: 関東の板碑が「青石(緑泥片岩)」を使うのに対し、こちらは地元の「平野石」を使っています。これは、当時の石工技術や流通が地元に根付いていたことを物語っています。

5. 見学のアドバイス

真福寺はJR山陽本線「福川駅」から徒歩で約7分ほどの場所にあります。板碑は本堂の裏手、歴代住職のお墓があるエリアに静かに立っています。

注意点

板碑は非常に古い石造物ですので、表面が脆くなっている場合があります。手を触れずに見守る形で鑑賞するのがマナーです。

山口県内には他にも「湯野板碑」や「建咲院の板碑」など、鎌倉時代の石造物がいくつか点在しています。これらを巡って当時の武士の信仰を辿ってみるのも面白いかもしれません。

「板碑」は、日本の歴史や石造物文化を知る上で非常に重要なものです。 読み方から、その背景にある歴史まで分かりやすく解説します。



板碑について

1. 読み方

板碑の読み方は、一般的に「いたび」と読みます。

稀に、その形状から「板石塔婆(いたいしとうば)」と呼ばれることもあります。


2. 板碑とは何か?

板碑は、主に鎌倉時代から戦国時代(13世紀〜16世紀)にかけて作られた、板状の石造供養塔(お墓や記念碑の一種)のことです。

  • 形: 平らな石を加工し、上部を山形に整え、その下に2本の切り込み(二条線)を入れるのが典型的なスタイルです。
  • 内容: 表面には、本尊を表す梵字(ぼんじ:サンスクリット文字)や、仏像の彫刻、造立した日付、供養の目的などが刻まれています。

3. 歴史と変遷

誕生(鎌倉時代)

板碑が流行し始めたのは鎌倉時代です。当時の武士たちの間で、自分たちの死後の安寧を願う「逆修(ぎゃくしゅ:生前に自分の法要を行うこと)」や、亡くなった家族の追善供養のために建てられました。

全盛期(南北朝〜室町時代)

仏教信仰が庶民にも広がるにつれ、板碑は武士だけでなく、村落の共同体や個人によっても盛んに作られるようになりました。特に関東地方では、秩父地方で採掘される「緑泥片岩(りょくにへんがん)」という青みがかった石を使った「武蔵型板碑(青石塔婆)」が大量に流通しました。

衰退と終焉(戦国時代末期)

16世紀後半、戦国時代が終わる頃になると、急激に作られなくなります。

  • 理由: 供養の形式が、板状のものから「五輪塔」や現在のような「角柱型の墓石」へと変化したためと考えられています。

4. なぜ歴史的に重要なのか?

板碑は、当時の人々の信仰心や生活を知るための「一級の歴史資料」です。

  • 日付の特定: 建立した年月日がはっきりと刻まれていることが多く、地域の歴史を確定させる手がかりになります。
  • 信仰の証: 刻まれた梵字から、当時その地域でどの仏様(阿弥陀如来や観音様など)が信仰されていたかが分かります。
  • 経済のバロメーター: 石材の流通ルートを調べることで、当時の経済圏や交通網を推測できます。

豆知識 板碑は、役割を終えた後に石垣の材料として再利用されたり、道端にまとめられたりしていることも多いです。古いお寺の隅や、古い街道沿いで見かけることができます。



板碑の表面に大きく刻まれている文字は「種子(しゅじ)」と呼ばれ、たった一文字で特定の仏様を表しています。真福寺の板碑で最も注目すべきは、中央の板碑に刻まれた「二尊種子」です。


1. 刻まれている2つの梵字(種子)

真福寺の中央の板碑には、向かって右に地蔵菩薩、左に不動明王を意味する梵字が並んでいます。

梵字(種子)読み方(日本語)表している仏様
(ha)地蔵菩薩
カーンマーン (hāṃ māṃ)不動明王

地蔵菩薩(カ)の意味

「カ」は、あらゆるものを生み出す「大地」のような慈悲の心を表しています。地蔵菩薩は、釈迦が亡くなってから次の仏(弥勒菩薩)が現れるまでの間、この世に仏がいない暗黒の時代(末法)において人々を救うとされる仏様です。

不動明王(カーンマーン)の意味

「カーンマーン」は、揺るぎない菩提心と、迷いを断ち切る強さを表しています。不動明王は、どんなに救いがたい衆生であっても、力ずくでも正しい道へ導くという強い決意を持った仏様です。


2. なぜ「地蔵」と「不動」のペアなのか?

この2体の組み合わせは、鎌倉時代の信仰のあり方を象徴しています。

  • 対極の救済: 「優しく見守る地蔵」と「厳しく導く不動」という対極の仏を並べることで、どんな状況にあっても全方位から救ってほしいという、当時の人々の切実な祈りが込められています。
  • 二尊信仰: 中世では、特定の二尊をセットで祀る「二尊供養」が行われることがありました。真福寺の板碑のように、この2尊を板碑に刻む例は全国的にも非常に珍しく、美術史・宗教史的にも貴重です。

3. その他の特徴的な表現

  • 籠字彫(かごじぼり):文字の輪郭だけを彫り込み、文字の中を平らに残す技法です。これにより、光の当たり方で文字が浮き上がって見え、より威厳を感じさせる作りになっています。
  • 天蓋(てんがい)と蓮華座(れんげざ):梵字の上には「天蓋(傘のような飾り)」、下には「蓮華座(蓮の花の台座)」が薄く浮き彫りにされていることがあります。これは、文字そのものが生きた仏様としてそこに安置されていることを示しています。

4. 歴史の「物証」としての文字

左側の板碑には、文字の横に「乾元二年(1303年)」という年号が刻まれています。

この時期は、鎌倉幕府が北条氏の統治のもとで、モンゴル襲来(元寇)などの国難を経験した直後の時代です。激動の時代に、地元(現在の周南市福川周辺)の人々が何を信じ、何を願ってこの石を立てたのか。その答えが、この2つの梵字に凝縮されています。


豆知識:梵字の向き

梵字は「一字に千言(せんげん)あり」と言われ、その一文字の中に仏様の智慧がすべて含まれていると考えられています。真福寺の板碑を眺める際は、単なる「古い文字」としてではなく、「そこに仏様が立っている」という当時の人々の視線で見てみると、また違った印象を受けるかもしれません。