真福寺の歩みと歴代住職

法成山 真福寺は、江戸時代初期の開山以来、多くの高僧と地域の皆様の深い信仰に支えられてまいりました。その歴史の足跡をご紹介いたします。

1. 開山「仁庵等恕(にんなんとうじょ)和尚」の徳

当山の開山、仁庵等恕和尚は石見国(現在の島根県)のご出身です。 名刹・建咲院(けんしょういん)の四世として観音堂を造立するなど尽力された後、一度は花ヶ原の小堂に隠居されました。しかし、和尚の高徳を慕う福川の有力者、尾崎・明野・福田の「三大旦那」が「ぜひ福川に禅の教えを」と熱望。その願いに応える形で、現在の真福寺の礎となる「得宝山 真福寺」を開かれました。

和尚は八十余歳の天寿を全うされるまで、禅の風を福川に根付かせ、多くの信者を慈しみ、導かれました。

2. 本寺との絆と発展

仁庵和尚の遷化(せんげ)後は、本寺である建咲院より五世・祖椿和尚、六世・祖省和尚がそれぞれ二代目、三代目住職として真福寺を守り、その発展に尽くされました。

3. 法成山への改号と宿場町・福川での役割

その後、山号を「法成山(ほうじょうざん)」と改め、現在地に大規模な庫裡(くり)を新築いたしました。 当時の真福寺は、山陽道福川宿において「脇本陣」としての役割も担っており、多くの人々が行き交う地域の要所として栄華を極めました。現在の本堂は弘化4年(1847年)に建立されたもので、多宝塔などもこの時代の隆盛を今に伝えています。

4. 「周防三福寺」のひとつとして

幕末から明治にかけて一時的な衰退もありましたが、明治30年代、二十世・龍苗和尚の代に再び門風が大きく花開きました。この頃より、当山は地域の信仰の拠点として「周防三福寺(すおうさんぷくじ)」のひとつに数えられるようになり、福川を代表する名刹としての地位を確固たるものにいたしました。

周防三福寺 — 歴史と格式が紡ぐ三つの「福」

明治三十年代、当山・二十世龍苗和尚の代に、真福寺はその門風が最も盛んになったと伝えられています。その当時、当山は山口の龍福寺、防府の正福寺と共に、「周防三福寺」のひとつとして広く県内にその名を知られていました。


周防三福寺の顔ぶれ

  • 龍福寺(山口市):大内氏の氏寺として知られ、本堂は国指定重要文化財。山口の歴史を象徴する寺院です。
  • 正福寺(防府市):防府の地に深く根ざし、古くから地域の信仰を集めてきた名刹です。
  • 真福寺(周南市福川):福川宿の脇本陣も務め、教育と信仰の両面で地域を支えてきた当山です。

なぜ「三福寺」と並び称されたのか

これら三つの寺院は、いずれも名前に「福」を冠しているだけでなく、それぞれの地域(山口、防府、徳山・新南陽)において、「歴史的由緒」「伽藍(建物)の壮麗さ」「地域への多大な影響力」を兼ね備えていたことから、自然と人々の間で比較され、敬愛を込めて呼ばれるようになりました。

現代に伝わる三福寺の誇り

「周防三福寺」と謳われた時代の隆盛は、現在も真福寺の境内に息づいています。 一八四七年に建立された本堂や多宝塔、そして鎌倉時代から続く板碑といった数々の文化遺産は、当時の栄華と、途切れることなく続いてきた皆様の信仰の賜物です。

現住職は、この歴史ある「福」のバトンを大切に受け継ぎ、現代を生きる皆様に「真の幸福」をお届けできるよう、日々お勤めに励んでおります。


仁庵等恕和尚様と真福寺創建について

毛利就隆公は、富海の国津社に祈禱して一女を得たことから大いに喜び、また寛永二年(1625)十月、宝成寺の観音堂(富田茶木原)に祈禱して一男を得た。そこで堂宇を建咲院の境内地に移して再建した。このときの棟札が伝わっている。その後、天保九年(1838)に洪水のため向山が崩れて堂が流失したので、翌十年春、再建された。(『山口県寺院沿革史』、『徳山市史』)。

この一男一女の祈祷を執り行ったのが仁庵等恕和尚様であったと伝えられている。

藩の国内改革に及んで、建咲院は元就公寄附の寺領を没収され、改めて高八石を安堵されることとなった。衆徒は食にも困るほど困窮したから、時の住持・仁庵等恕は度々寺領の回復を願い出たが許されなかった。寺を退去するよりほかない、と訴えたが、やはり許されなかった。等恕は奮然として寺を去り、福川村の奥観音堂に蟄居した。建咲院の檀徒であった尾崎・明野・福田氏などが、福川に一寺の建立を願い出て許されので、等恕を開山とする真福寺が創建され建咲院の末寺となった。

仁庵等恕和尚様と真福寺創建については、陶の城@周防山口館のホームページより転載