歴史・概略

 石州出身。建咲院三世宗喜和尚の弟子「仁庵等恕(にんなんとうじょ)」は元和五年に建咲院四世となった。寛永二年(1625)にそこに観音堂を造立している。

その後隠居して花ヶ原の小堂宇に住したが、徳をしたう福川在の尾崎・明野・福田の三大旦那の懇願に応じ、福川に「得宝山真福寺」を開き、禅風を盛んにし信者を教化した。八十余歳にして1644年に遷化。

その後は、本寺建咲院の五世祖椿和尚(~1693没)が二代目として、六世祖省和尚(~1716没)が三代目として真福寺を守り発展させた。

その後、山号を法成山と改め、現在地に大がかりな庫裡を新築。脇本陣としての使用も盛んであった。

また、1847年には新本堂を建築(現在のもの)するなど栄えてきた。(多宝塔などもこの時代のものである)幕末から明治中期にかけて一時衰退したが、明治三十年代、二十世龍苗和尚の代には門風大いに栄え、このころから「周防三福寺※」のひとつと称せられるようになった。

周防三福寺・・・山口市龍福寺・防府市正福寺・周南市真福寺